美しい日本語
「美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ」
「最低限の日本語の能力が身についてない現状がある」
…と、某大臣がのたまってます。('д')
小学校での英語必修化に関連する発言なんですが。それにしても、「最低限の日本語能力」「美しい日本語」とはどういった日本語(能力)を示すんだろうなぁ…。
日々、仕事で書類や報告書を書くにしても、プライベートでブログを書くにしても、自分自身の「日本語力」欠如に愕然とすることが多い。三十路をとっくに過ぎても…である。まぁ、文系が苦手で理系に逃げ込んだ面は否定しないけど、それでも日常のコミュニケーションには困らないと思っている。
「最低限の日本語力」はあると思うけど、「美しい日本語」を使えているかと聞かれたら…どうなんだ? ('д')
ま、多分「美しい日本語」は使えていないでしょうな。少なくとも、「完璧な日本語」には程遠いと思われ。某大臣に言わせれば、私なんぞは英語を学ぶ資格すら無いんでしょう。(笑)
結局の所、「母国語がままならんうちに他国語を習うのはダメ」といった発想する人は、「英語と日本語を脳内で相互変換して考える」というメソッドしか持たないのでは…と思う。違うメソッドが存在し得るのを想像できないんでしょうなぁ…。ま、TOEIC 400点ちょっとの私が言うのもアレですが。(笑)
変な(しかも不適切な)例で申し訳ないが、私は「標準語」「津軽弁」「南部弁」を使い分ける。長い時間をかけて「耳で覚えた」結果、それぞれの言語でほぼ不自由なく会話が出来る。
例えば「津軽弁」で会話をする時、脳内でいちいち「津軽弁と標準語で相互変換」を行うわけではない。脳内での言語モードが完全に「津軽弁モード」に切り替わっていて、津軽弁を聞き(理解し)、津軽弁で考え、津軽弁を発する。
確かに、英語と日本語の関係とは異なり、文法は同じで一部の単語が異なるだけという面はある。しかし、「津軽弁の表現」を標準語で的確に表現できない(ニュアンスが微妙に異なる)という事もある。
脳内での言語処理におけるレイヤとして、基本言語(母国語)の上に別言語(他国語)が乗るだけではなく、多様な言語を並列に(あるいは個別に)処理できる可能性もあるはずなのだ。
だから、成人とは比較にならないほど脳発達が活発な児童のうちに、英語に触れさせない手は無い。ただ、小学生のうちは「学習」である必要は無いと思う。あくまで「環境」として英語に慣れ親しむ方が良いと思うのだけど。