分祀論
「信仰」に関わるナーバスな話題なのであらかじめ断っておきます。
私は国家神道の信者でも研究者でもないので、用語に対しての不理解や曲解・偏見を元に書いている可能性があります。
「事実との相違」を指摘して頂いたり、「私はこう思っている」と持論を披露して頂くのは結構(むしろ歓迎)ですが、ヒステリックな(…と、こちらが判断せざるを得ない)反応は勘弁してください。色々と疲れるので。(笑)
ですから、本エントリーは「こう思っている人間もいるのだな」程度に読んでもらえればOKです。
…と、前置きの方が長くなりそうな気配なので本題に移りますが。('д')
「合祀者リストにA級戦犯を載せた」のも「リストを受け取った後に合祀を棚上げした」のも「実際に合祀に踏み切った」のも「合祀の儀式をうにゃうにゃした」のも、生きている人間。結局はすべて人の所業なわけで。
であるならば、分祀に関しても「生きている人間」が「決めて」「行う」事が可能…と考えちゃうのだけど。
それなのに、「分祀という概念自体が教義上無い」「合祀されてひとつの神となった魂を切り分けることは不可能」等、さも「人が介入できない」といった理由付けで否定されるのは、激しく違和感が…。
…というだけの話なんですけどね。ホントに前置きの方が長くなったな。('д')