Main

2010 / 07 / 12 - Monday

選挙区における党別の総得票

いつぞやの衆議選だったか参議選だったか忘れましたが、選挙区の総得票数としては民主が自民を上回っているのに、獲得議席数は自民党の方が上…という事がありました。

その当時は、ことさら「民主に風が…」と言われていた気がします。当時の選挙前の雰囲気と結果の違いに、なんか腑に落ちないというか、気持ち悪い思いをした事がありました。

今回は民主に対する逆風が強まる中の選挙だったので以前とは違うのですが、世論の雰囲気と選挙結果にズレがあるように思えて、気持ち悪さ的には同じようなものを感じました。

ということで、今回の選挙の「選挙区における党別の総得票数」を計算してみました。
#asahi.comに掲載されている開票結果を基に算出。
#簡単な自作perlスクリプトとExcelで計算しているので、間違ってたらゴメンナサイ。('д')

・民主 22,755,999 (39.0%)
・国民  167,555 ( 0.3%)
・自民 19,496,083 (33.4%)
・公明 2,265,818 ( 3.9%)
・共産 4,256,400 ( 7.3%)
・改革  625,431 ( 1.1%)
・社民  602,684 ( 1.0%)
・た日  328,475 ( 0.6%)
・みな 5,977,390 (10.2%)
・幸福  291,810 ( 0.5%)
・諸派  318,847 ( 0.5%)
・無所 1,314,313 ( 2.3%)

…僅差ではありますが、やっぱ、自民より民主の方が上ですね…。
#どのみち、過半数には程遠いですが。

ちなみに比例区での総得票数は次の通り。

・民主 18,450,138 (31.6%)
・国民 1,000,036 ( 1.7%)
・自民 14,071,433 (24.1%)
・公明 7,639,438 (13.1%)
・共産 3,563,556 ( 6.1%)
・改革 1,172,394 ( 2.0%)
・社民 2,242,735 ( 3.8%)
・た日 1,232,207 ( 2.1%)
・みな 7,943,799 (13.6%)
・幸福  229,026 ( 0.4%)
・諸派  908,584 ( 1.6%)

まぁ、この結果をどう見るかは人それぞれだと思うので、私自身がこの場でどうこう言うつもりはないですが。
#特に、選挙区での総得票数ってどれだけの意味があるのか不明ですし。

そういえば、アメリカの大統領選でも、選挙人という仕組みにより、総得票数で下回った候補が当選…って事もありましたね、確か。

民主主義って、難しいですのぅ…。

 :
 :
 :
 :

と、ここまでが、当初書くつもりだった内容。

実はツイッターでも「総得票数で民主>自民」といった事実に「小選挙区マジック」という言葉を添えてつぶやいたんだけど、「選挙区は人を選ぶ選挙」「完全比例にするとタレント候補などが有利」という意見を目にしたので、思っていることをちょっと書き足します。
#と言っても、たいしたオチはないですよ?('д')

まず、「獲得議席数と総得票数が逆転している」という事実を確認してみただけで、上の方でも書いている通り、これにどれだけの意味があるかは不明なので、ことさら強調したり意味づけをしたりするつもりはありません。

そして、「選挙区は人を選ぶ選挙」というのはその通りだと思います。異論はないです。というか、そうあって欲しいと思います。

ただ、実状としてそうなっているかは少々疑問に思ってまして…。私の場合、(国政選挙に限っては)選挙区でも「人で選ぶ」よりは「政党で選ぶ」場合がほとんどなので、特にそう感じるのかもしれません。候補が訴える政策にしても、推薦している党の公約(ここ数十年間の話なので、あえて「公約」と表現します)に沿った内容がほとんどですし。

ちょっと話がそれますが、「人を選ぶ」選挙であるなら、国会運営での「党議拘束」っておかしいと思うのですよ。何のために議員一人ひとりに「1票」が託されているのかと。どうしても党議拘束をかけるって言うなら、比例で当選した議員だけにして欲しいと思いますわ。('д')

あと、「完全比例にするとタレント候補などが有利」というのもその通りだとは思うんですが、参院選の場合は「非拘束名簿式」なので、ある程度は当選させたい人を選べるはずです。
#まぁ、タレント候補が全て悪いとは言いませんが。

けど、実状としては、やはり「人気者有利」なんですよねぇ…。いやまぁ、「人気者」なんだから人気があるのは当たり前なんですが、その人気の由来が「キャラクター的」なのか「政治信条(もしくは手腕)的」なのかが問題なんですよね…。ただ、今回はタレント候補(と言われている人達)が軒並み落選しているのがこれまでになかった良い傾向かな?

どんな選挙方式でもメリットもあればデメリットもあり、どれがベストかは立場によって変わると思いますが、有権者としてはその時々のルールで選挙権を行使するしかなく、与えられた土俵の上でより良い方向へ政治を動かすしかないと思います。ま、至極当たり前のことだと思うのですが。
#だから、「投票に行っても何も変わらない」的な発言を平気でする人の気が知れんのよねぇ…。

2006 / 09 / 28 - Thursday

美しい日本語

「美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ」
「最低限の日本語の能力が身についてない現状がある」

…と、某大臣がのたまってます。('д')

小学校での英語必修化に関連する発言なんですが。それにしても、「最低限の日本語能力」「美しい日本語」とはどういった日本語(能力)を示すんだろうなぁ…。

日々、仕事で書類や報告書を書くにしても、プライベートでブログを書くにしても、自分自身の「日本語力」欠如に愕然とすることが多い。三十路をとっくに過ぎても…である。まぁ、文系が苦手で理系に逃げ込んだ面は否定しないけど、それでも日常のコミュニケーションには困らないと思っている。

「最低限の日本語力」はあると思うけど、「美しい日本語」を使えているかと聞かれたら…どうなんだ? ('д')

ま、多分「美しい日本語」は使えていないでしょうな。少なくとも、「完璧な日本語」には程遠いと思われ。某大臣に言わせれば、私なんぞは英語を学ぶ資格すら無いんでしょう。(笑)

結局の所、「母国語がままならんうちに他国語を習うのはダメ」といった発想する人は、「英語と日本語を脳内で相互変換して考える」というメソッドしか持たないのでは…と思う。違うメソッドが存在し得るのを想像できないんでしょうなぁ…。ま、TOEIC 400点ちょっとの私が言うのもアレですが。(笑)



変な(しかも不適切な)例で申し訳ないが、私は「標準語」「津軽弁」「南部弁」を使い分ける。長い時間をかけて「耳で覚えた」結果、それぞれの言語でほぼ不自由なく会話が出来る。

例えば「津軽弁」で会話をする時、脳内でいちいち「津軽弁と標準語で相互変換」を行うわけではない。脳内での言語モードが完全に「津軽弁モード」に切り替わっていて、津軽弁を聞き(理解し)、津軽弁で考え、津軽弁を発する。

確かに、英語と日本語の関係とは異なり、文法は同じで一部の単語が異なるだけという面はある。しかし、「津軽弁の表現」を標準語で的確に表現できない(ニュアンスが微妙に異なる)という事もある。

脳内での言語処理におけるレイヤとして、基本言語(母国語)の上に別言語(他国語)が乗るだけではなく、多様な言語を並列に(あるいは個別に)処理できる可能性もあるはずなのだ。

だから、成人とは比較にならないほど脳発達が活発な児童のうちに、英語に触れさせない手は無い。ただ、小学生のうちは「学習」である必要は無いと思う。あくまで「環境」として英語に慣れ親しむ方が良いと思うのだけど。

2006 / 08 / 21 - Monday

分祀論

「信仰」に関わるナーバスな話題なのであらかじめ断っておきます。

私は国家神道の信者でも研究者でもないので、用語に対しての不理解や曲解・偏見を元に書いている可能性があります。

「事実との相違」を指摘して頂いたり、「私はこう思っている」と持論を披露して頂くのは結構(むしろ歓迎)ですが、ヒステリックな(…と、こちらが判断せざるを得ない)反応は勘弁してください。色々と疲れるので。(笑)

ですから、本エントリーは「こう思っている人間もいるのだな」程度に読んでもらえればOKです。

…と、前置きの方が長くなりそうな気配なので本題に移りますが。('д')



「合祀者リストにA級戦犯を載せた」のも「リストを受け取った後に合祀を棚上げした」のも「実際に合祀に踏み切った」のも「合祀の儀式をうにゃうにゃした」のも、生きている人間。結局はすべて人の所業なわけで。

であるならば、分祀に関しても「生きている人間」が「決めて」「行う」事が可能…と考えちゃうのだけど。

それなのに、「分祀という概念自体が教義上無い」「合祀されてひとつの神となった魂を切り分けることは不可能」等、さも「人が介入できない」といった理由付けで否定されるのは、激しく違和感が…。

…というだけの話なんですけどね。ホントに前置きの方が長くなったな。('д')

2006 / 08 / 19 - Saturday

真実と事実

「真実を追い求めることなかれ。ただ、事実か否かを見極めるべし。」

…とは、小説めいたものを書こうと思った時に浮かんだフレーズなのだけど、私のポリシーでもある。

「真実」には、意識のベクトルが含まれており、見る角度・立ち位置によって変化する物…と考えている。いわば、主観の上に成り立つ事象。

対して、「事実」は客観の上に成り立つ事象。事実は事実でしかない。故に、見る角度や立ち位置には囚われない。



「歴史」は、過去の積み重ねであり、本来は「変化しない」モノであるはず。しかし、後々に明らかになる事実によって、どれだけの「真実」が塗り替えられてきたか…。

国家間の歴史認識の違いに驚き、戸惑う。そして、国家が歴史の教育をつかさどる難しさと危うさも感じる。

ひとつの事象、あまたの事象において、それらが事実か否か…。途方もない作業を経てようやく、歴史の片鱗が見えてくるのではないかと思う。




…ということで、「真実」という言葉はあまり好きではない。同じ様な理由で、「正義」という言葉もあまり好きではない。

2006 / 08 / 16 - Wednesday

靖国問題と内政干渉

私個人としては、内閣総理大臣…というか、国家権力者による靖国神社公式参拝には反対という考え。

何故か?

理由は至極簡単で「違憲の疑いが極めて強い」から。

国家権力の頂点に立つ小泉首相が「政教分離」を無視した上で「信仰の自由」を盾にするのはものすごい疑問。

憲法は「国民の権利・国家権力の制限」であると私は解釈しているので、政教分離は「国家に課される制限」、信仰の自由は「国民の権利」だと思うのだけど。
#「首相と言えども国民なんだから、信仰の自由は守られるべき」という反論もあると思う。
#まぁ、私人の範疇で言うならわかるけど、内閣総理大臣といえば公人中の公人なわけで。
#この点では「国民の権利」を「国家権力という強制力を受ける側の権利」と読み替えて
#もらった方がいいかも。まぁ、参拝時に「内閣総理大臣」と記帳する小泉さんの場合は
#論外なわけですが。('д')



内政に限定して考えても「おかしい」と思うので、「内政干渉」と言われる点については色々と疑問に思っている。

「内政干渉」は大辞林によると「他国が、ある国の内政問題に強制的に介入し、主権を侵害すること」だそうだ。

中国や韓国が「批判」をすることが、「強制介入」に当たるのか。ひいては「主権の侵害」に至っているのか。
#軍事介入はもちろんのこと、国連で何かしらの決議を求めたり、経済制裁とかはしてないと思ったけど…。

それに、「内政干渉だ」と声を荒げている人は、この問題を「内政」である…つまり、政治の範疇であると暗に認めていることになるわけだけど、その自覚はあるのか。

そもそも、中国人や韓国人の「英霊」も祭られている靖国の問題が、「内政」で収まる話なのか。

兎にも角にも疑問だらけですわ。

Archives