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2006 / 09 / 28 - Thursday

美しい日本語

「美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ」
「最低限の日本語の能力が身についてない現状がある」

…と、某大臣がのたまってます。('д')

小学校での英語必修化に関連する発言なんですが。それにしても、「最低限の日本語能力」「美しい日本語」とはどういった日本語(能力)を示すんだろうなぁ…。

日々、仕事で書類や報告書を書くにしても、プライベートでブログを書くにしても、自分自身の「日本語力」欠如に愕然とすることが多い。三十路をとっくに過ぎても…である。まぁ、文系が苦手で理系に逃げ込んだ面は否定しないけど、それでも日常のコミュニケーションには困らないと思っている。

「最低限の日本語力」はあると思うけど、「美しい日本語」を使えているかと聞かれたら…どうなんだ? ('д')

ま、多分「美しい日本語」は使えていないでしょうな。少なくとも、「完璧な日本語」には程遠いと思われ。某大臣に言わせれば、私なんぞは英語を学ぶ資格すら無いんでしょう。(笑)

結局の所、「母国語がままならんうちに他国語を習うのはダメ」といった発想する人は、「英語と日本語を脳内で相互変換して考える」というメソッドしか持たないのでは…と思う。違うメソッドが存在し得るのを想像できないんでしょうなぁ…。ま、TOEIC 400点ちょっとの私が言うのもアレですが。(笑)



変な(しかも不適切な)例で申し訳ないが、私は「標準語」「津軽弁」「南部弁」を使い分ける。長い時間をかけて「耳で覚えた」結果、それぞれの言語でほぼ不自由なく会話が出来る。

例えば「津軽弁」で会話をする時、脳内でいちいち「津軽弁と標準語で相互変換」を行うわけではない。脳内での言語モードが完全に「津軽弁モード」に切り替わっていて、津軽弁を聞き(理解し)、津軽弁で考え、津軽弁を発する。

確かに、英語と日本語の関係とは異なり、文法は同じで一部の単語が異なるだけという面はある。しかし、「津軽弁の表現」を標準語で的確に表現できない(ニュアンスが微妙に異なる)という事もある。

脳内での言語処理におけるレイヤとして、基本言語(母国語)の上に別言語(他国語)が乗るだけではなく、多様な言語を並列に(あるいは個別に)処理できる可能性もあるはずなのだ。

だから、成人とは比較にならないほど脳発達が活発な児童のうちに、英語に触れさせない手は無い。ただ、小学生のうちは「学習」である必要は無いと思う。あくまで「環境」として英語に慣れ親しむ方が良いと思うのだけど。

2006 / 08 / 21 - Monday

分祀論

「信仰」に関わるナーバスな話題なのであらかじめ断っておきます。

私は国家神道の信者でも研究者でもないので、用語に対しての不理解や曲解・偏見を元に書いている可能性があります。

「事実との相違」を指摘して頂いたり、「私はこう思っている」と持論を披露して頂くのは結構(むしろ歓迎)ですが、ヒステリックな(…と、こちらが判断せざるを得ない)反応は勘弁してください。色々と疲れるので。(笑)

ですから、本エントリーは「こう思っている人間もいるのだな」程度に読んでもらえればOKです。

…と、前置きの方が長くなりそうな気配なので本題に移りますが。('д')



「合祀者リストにA級戦犯を載せた」のも「リストを受け取った後に合祀を棚上げした」のも「実際に合祀に踏み切った」のも「合祀の儀式をうにゃうにゃした」のも、生きている人間。結局はすべて人の所業なわけで。

であるならば、分祀に関しても「生きている人間」が「決めて」「行う」事が可能…と考えちゃうのだけど。

それなのに、「分祀という概念自体が教義上無い」「合祀されてひとつの神となった魂を切り分けることは不可能」等、さも「人が介入できない」といった理由付けで否定されるのは、激しく違和感が…。

…というだけの話なんですけどね。ホントに前置きの方が長くなったな。('д')

2006 / 08 / 19 - Saturday

真実と事実

「真実を追い求めることなかれ。ただ、事実か否かを見極めるべし。」

…とは、小説めいたものを書こうと思った時に浮かんだフレーズなのだけど、私のポリシーでもある。

「真実」には、意識のベクトルが含まれており、見る角度・立ち位置によって変化する物…と考えている。いわば、主観の上に成り立つ事象。

対して、「事実」は客観の上のに成り立つ事象。事実は事実でしかない。故に、見る角度や立ち位置には囚われない。



「歴史」は、過去の積み重ねであり、本来は「変化しない」モノであるはず。しかし、後々に明らかになる事実によって、どれだけの「真実」が塗り替えられてきたか…。

国家間の歴史認識の違いに驚き、戸惑う。そして、国家が歴史の教育をつかさどる難しさと危うさも感じる。

ひとつの事象、あまたの事象において、それらが事実か否か…。途方もない作業を経てようやく、歴史の片鱗が見えてくるのではないかと思う。




…ということで、「真実」という言葉はあまり好きではない。同じ様な理由で、「正義」という言葉もあまり好きではない。

2006 / 08 / 16 - Wednesday

靖国問題と内政干渉

私個人としては、内閣総理大臣…というか、国家権力者による靖国神社公式参拝には反対という考え。

何故か?

理由は至極簡単で「違憲の疑いが極めて強い」から。

国家権力の頂点に立つ小泉首相が「政教分離」を無視した上で「信仰の自由」を盾にするのはものすごい疑問。

憲法は「国民の権利・国家権力の制限」であると私は解釈しているので、政教分離は「国家に課される制限」、信仰の自由は「国民の権利」だと思うのだけど。
#「首相と言えども国民なんだから、信仰の自由は守られるべき」という反論もあると思う。
#まぁ、私人の範疇で言うならわかるけど、内閣総理大臣といえば公人中の公人なわけで。
#この点では「国民の権利」を「国家権力という強制力を受ける側の権利」と読み替えて
#もらった方がいいかも。まぁ、参拝時に「内閣総理大臣」と記帳する小泉さんの場合は
#論外なわけですが。('д')



内政に限定して考えても「おかしい」と思うので、「内政干渉」と言われる点については色々と疑問に思っている。

「内政干渉」は大辞林によると「他国が、ある国の内政問題に強制的に介入し、主権を侵害すること」だそうだ。

中国や韓国が「批判」をすることが、「強制介入」に当たるのか。ひいては「主権の侵害」に至っているのか。
#軍事介入はもちろんのこと、国連で何かしらの決議を求めたり、経済制裁とかはしてないと思ったけど…。

それに、「内政干渉だ」と声を荒げている人は、この問題を「内政」である…つまり、政治の範疇であると暗に認めていることになるわけだけど、その自覚はあるのか。

そもそも、中国人や韓国人の「英霊」も祭られている靖国の問題が、「内政」で収まる話なのか。

兎にも角にも疑問だらけですわ。